悲しみを超えて

先日、ふと耳に挟んだ会話なのですが

「自分が本当に苦しんだり、悲しんだりしてきた人は、絶対に人にそれをしない」

うん、相手を思いやれてなんて優しい人なんだろう・・・と、今までの次元なら思う所ですが、

実は、これも判断(ジャッジ)している状態なんですね。

つまり「悲しみや苦しみは、辛いから(自分は二度と)体験したくない、だから相手もそうだろう」という思い込みがあるんです。

ありのまま目の前におきている世界を受け容れているのではない状態、

つまり「辛いことは遠ざけたい」という世界に生きている状態です。

本当に悲しみや苦しみ、そして地獄のような孤独を越えた人は、悲しみや苦しみが何を自分に齎(もたら)してくれたのかが理解出来る。

例えば「あの苦しみがあったから今のわたしがある」と言い切れるように、人間の幅が広がるんですよね。

だから、目の前の誰かが「悲しみ」の体験をしている時に、

「悲しみ、孤独、苦しみ=辛い」という判断をすることは

三次元的な*思い込みによる判断*なんですね。

 

それが良いとか悪いとかではなく

その判断によって相手がなるべく*体験しないようにコントロール*している状態なわけです。

相手をコントロールしようとする事に、愛はありませんよね。

苦しみから逃れることだけが学びではないと理解したならば、学び(ギフト=歓び)を他人から奪うことは出来ないでしょう。

「自分が本当に苦しんだり、悲しんだりしてきた人は、絶対に人にそれをしない」

というと一見きれいなようですが、
三次元的な判断(表裏一体の世界の、表だけ、もしくは裏だけ、しか見えない視点)での判断(ジャッジ)でしかないのです。

それが良いか悪いかの話ではなくね

良くなりたいと思いながら、逆のことをやってるかもしれない事に気付くと
もっと行きたいところに速く行けるかもしれないよ?

というお話しです。

 

例えば・・・

この前は振り子の例にしたので、今回はシーソーにしてみますが(あまり変わらないかな)

シーソーが左に下りた時、悲しみや苦しみの体験をするとしましょう。

シーソーが右に下りた時、至福や歓びの体験をするとしましょう。

シーソーという乗り物は両方にがったんごっとん繰り返して下りるものです。

それが正常で常に左にしかいかないのは壊れています。

ですから、右に下りる事ばかりを望む状態は、不自然な状態ですし

この世界も陰陽で成り立っているので、あざなえる縄のごとし、つねに表裏一体なわけです。

表の体験があれば裏の体験が必ず同時に創造されている。

だから、両方で完全なのだと受け容れる。

その体験を繰り返すことに慣れた時、全ての悲しみや孤独、淋しさ、苦しみが、今の自分を強くたくましく、そして何事もありがたいと思って明るく楽しく生きる強さを育ててくれたのだと、知る事になるのです。

悲しみを越える次のステップは、悲しみを体験しつくした後に、その悲しみこそが素晴らしく深い学びだったのだと知る事です。

苦しみが大きければ、幸福も大きくなるのです。

螺旋を描くように、陰に大きく振れれば、陽にも大きく振れるのです。

だから、自分が悲しんだり苦しんだりしたから、相手にそれを体験させまいとするのは、

三次元的な、陰陽の世界なのに「陰だけ」とか「陽だけ」とか

一方だけしか見ることの出来ない視点で判断していることであり、

自分(人格)に固執しているのです。

 

自分が判断した「苦しみ=辛い」という概念に囚われている状態を言うのです。

この状態は、人生を自由に創造するというヒトに与えられた能力を最大限に発揮できない状態です。

創造する能力を最大限に発揮するためには、ポイント・ゼロ、に維持することです。

ポイントゼロとは光の粒子がプラスにもマイナスにも帯電していない状態。

この状態になっている事を「浄化完了」といいます。

浄化とはネガティブをポジティブに変換する事も指しますが、究極的にはポイント・ゼロ、に維持する事を目的とします。

自分が孤独で淋しかったから、その体験を相手にさせまいとするのは、小我(エゴ)に支配されている状態なのです。

この体験もまた味があって良いものですから、エゴを否定しないでください。

エゴに今コントロールされているんだな、という自覚がもてない事が問題なのです。

自覚できれば、抜け出したいときにいつでもポイント・ゼロに戻れるからです。

大我で判断するならば、全ての体験が必要だからおきていることなのです。

だから、この悲しみは何を私に見せているのだろうかと、徹底的に観察する事なのです。

悲しむことも苦しむことも素晴らしい体験です。

肉体がなければ出来ない体験なのです。

そこまで分かったとき、この世界に生まれて、今生きている事に自然に感謝する意識レベルに達します。

とはいっても、やっぱり悲しみや苦しみを乗り越える時の辛さは分かるから、何も出来なくても祈ったり、見守ったり心配したりする。

でも、その状態にいるその人の体験を邪魔はしない。

その人に必要な体験を、辛いことだと勝手に決めて「させまい」と固執することは、愛ではない。

幸せがいい事だという価値観を当たり前にふりまく在り方もまた、上記と同じ。

それはその人の貴重な体験を「うばう」行為なのです。

全ての体験が素晴らしい。

と、こんな風に書くと「もうそれは人間じゃない」とか「ロボットみたいに感情がない状態にはなりたくない」という声も聞かれるのですが

そうではない。

より人間としての感覚を拓いていく意識レベルになるのです。

感情が凍結するわけではなく、幸せになりたいと思ってきた物が

幸せとは表裏一体の裏の存在も観ながら、どちらを多く出すかのバランスを自由に選べるようになる意識です。

この意識に到達する事で、地球環境を守れるレベルになるようです。

これ以下ではどうしても自分の事しか考えられないからです。

今生きている事がどんなに劇的な奇跡の上に成り立っているか。

命に、地球に自然に感謝する意識レベルに達します。

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